「嫌なら見るな」理論について考える

「嫌なら見るな」、「批判するなら聞かなきゃいいのに」、「ほならね、あなたが作ってみろという話でしょ」、昨今のネットメディアで所謂アンチと呼ばれる人たちにかけられている言葉ですよね。すごくよく見かけます、特に新しい流れのコンテンツの時に。まあ、言わんとしていることはわからんでもないのですが、果たしてそんなこと可能なのか?というか、その理論本当にあなたにとって良い理論になりますか?という疑問に駆られたので考えてみることにしました。注を入れておくとここでいう「アンチ」はしっかりと言葉を弁えて反対意見を述べている方たちのことです。「暴言を吐きたいだけの人」や「ただそのコンテンツを見下したい人」は論外として考えてください。そんな奴らは便利なこの時代、接触を断てばいいだけです。

アンチっていうのは見ていて快いものではないです。それが的を射ていても、ファンはきっといい思いはしないのでしょう。すべての批判意見を「なるほど、改善しよう」という人は間違いなくパンクします。なら、やはりアンチは廃絶すべきだと思いますか?なら、立場を変えて考えてみればいいんです。この時代、コンテンツが溢れすぎて嫌でもプロモーションとして目に入ることはあるわけです。それが自分に対して嫌悪感を覚えるものだったら、あなたは何もしないと言えますか?それが、法律を犯すレベルではないが、公共のルールの観点で良くないコンテンツだった時、それに注意や非難の目を向けませんか?それは当事者から見ればアンチです。

何が言いたいかというと、アンチを廃絶するということは非難も拒絶も許さない偽善的な世界を作り上げると言っているのと同じです。言論の自由などいらないと自分で権利を放棄しているのと同義です。意見が対立するなら議論すればいいんです。ファンが批判意見をすべて悪と成して廃絶するから「信者」なんて揶揄されるんです。何故議論から逃げるのか。ファンならその意見に対して「いや違う」、「確かにそうだ」の判断はできるはずです。その上で相手が折れなくても「なるほど、こういう人もいるのか。でも自分はこうだから」と思えばいいじゃないですか。全人類が同じコンテンツが好きでアンチがいない世界なんて何も面白くないと思いませんか?面白くないどころか自分は薄気味悪いと思います。70億通りの意見があるんです。どんどん議論を重ねてください。

ここからは持論なんですけど、コンテンツの発信者たちは暴言や偏見には悲しみますが、反対意見というのは結構勉強にしていますよ。これを読んでくれた人の立場が何かはわかりませんが、自分が反対意見を言われた時、それが理にかなっていたら反省材料として自分の経験・思考の糧にしていませんか?結局、いつも一番冷静に周りを見られずに当事者の足を引っ張っているのは「ファン」だと思うんですよ。そのことにそろそろ気づきませんか?

あとがきみたいなものとして補足です。これは思い立って殴り書いた文章なので、このコラムに対しても賛否両論あるんでしょうけど、それはどんどん言ってほしいです。人には「思考力」という力があるのですからそれを議論という形でぶつけていきましょう。同じ殻にこもるのはやめましょう。それで嫌な思いをすることもあると思いますが、無駄ではありません。では、こんな若造の長ったらしい主張を受け止めた方には感謝の意を込めて筆をおかせていただきます。

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