再考 : 僕らの「食」と「生」

現代はスーパーマーケットやコンビニエンスストア、そして冷凍食品や外食産業などの企業的な食産業の拡大によって食べるものなんて身近にありふれています。  こんな時代の中でみなさんは「」についてどんな感覚を持っているでしょうか。なかには全く興味がない人もいるかもしれませんが、多くの人がおいしいものやインスタ映えするもの、あるいは自分で作ることなどに関心があると答えると思います。  しかし、その関心は「食」ではなくその一つの側面に含まれる「料理」に向けられたものにすぎません。今回は様々な食べ物を簡単に手に入れるができるようになった時代だからこそ忘れられていく「」のもう一つの側面を考えます。

そもそも「食」には生きるための営み生きるうえでの楽しみという二面性があります。 具体的に言えば、「ヒト」という生き物は主に家畜や野菜・穀物を育て、魚や獣を獲り、それらを食べることによって生命を維持しています。その一方で「人間」という存在は食べる内容(料理・食材)食べる方法・空間(調理法、雰囲気、様式など)を楽しんできました。一般的に食文化というとこちらに焦点があてられます。  いまの社会では企業的な食産業は当たり前の存在です。これは後者に焦点を当てた産業と言えるでしょう。それによって価格変動はあるとはいえどんな季節でも、どこに行っても大体の食べるものが手に入るようになり、調理の手間も少なくなりました。また、見栄えやご当地や流行などを売りにした料理を提供する商業形態も発展しています。しかし、その利便性商業性は「食」の生きるための営みという側面を見えなくさせています

 この生きるための営みという側面をもう少し深く掘り下げましょう。我々は他の生物を食べることによって生きています。肉であれ魚であれ植物であれ、食べることができるようになるにはまず長い「生」が必要です。そして、当然生きたまま食べるわけではないのでその生物の生命を断ち切らなければなりません。つまり、「食べる」ということは、その長い時間をかけて形成された「生」を奪って自分の生命に変えるということなんです。これは「生きる」ことの重い本質といえます。  現在、我々を取り巻く食環境では自分で「生」に触れることはなくなり、「生」をもった姿だけでなく「生」を奪われた姿さえ見えにくくなっています。すでに加工されたあらゆる食べるものがお金を払えばいつでも、簡単に、すぐに手に入ります。だからこそ普段口にする食材が持っていた「生」に目を向ける機会は失われつつあります。  企業的な食産業を否定するわけではありません。しかし、その「生」が見えにくくなったことで、食べて生きることの重みを感じにくくなったことも事実です。だからこそもう一度意識しなければ、食品の大量廃棄や水産資源減少など「食」に関する諸問題は拡大し続けるでしょう。これは企業側だけでなく、われわれ消費者側にも責任があります。

 「食」は楽しいものです。生きるための単なる栄養摂取ではなく、より効率的においしくいただくために様々な技術が発展してきました。しかし、効率性を求めすぎた結果として他の生物の「生」を奪って自分の「生」に変えるという側面が見えにくくなったのだと思います。もう一度自分の食べるものを「食」全体から捉え、1食を、そして食材1つ1つを大切にしていただけたらと思います。

2018.02.08 大脇崚冴

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