絵を描く象、かく語りき

(個人の見解。鵜呑みにすること勿れ。)

芸術、よくわからへん。

現代アート特にわからん。

と、よく言われる。

約8年以上芸術を見つめてきたけれど、私も正直、一色に塗られたキャンバスがウン億円と言われてもまだ良さはわからない。でも、どうやら何を描いているかわからない作品でも人は感動して涙を流すことがあるらしい。

瞬間を切り取ったみたいな鮮明な写真が撮れる今、写実の忠実さはメインじゃない。もちろん写実の絵を描くのは基本だ。でもそれは美術といったものだと思う。このことを考えるたび、ピカソの少年時代の素晴らしい写実画を思い出す。後の彼の代表作たちが完璧な写実がゴールなんじゃないと教えてくれる。

美術館やギャラリーに意味ありげに置かれ、綺麗に照明で照らされた作品たちはどんなものでも大体よく見える。何枚もデッサンを重ねた作品と数時間でちゃちゃっと描いたものの違いは見た目だけではわからないこともある。作者が傑作と言い張れば傑作で、駄作と言えば駄作なんだろうか。いや、価値を見いだすのは作者じゃなくて私たちだ。オークションで巨額の値段が付けられた作品に魅力を感じなくても間違いじゃないし、高架下のスプレーの落書きとか赤ちゃんのお絵かきに惹きつけられても何ら問題ないわけである。実際そんな人もいる。

 現代アートのジャンルの中にコンセプチュアル・アートというものがある。大雑把に言えば、発想の勝利の作品、といった感じのものだ。個人的に好きなのはピエロ・マンゾーニの『世界の台座』。地面に置かれた長方形の石碑のようなもの。逆さまにフランス語で世界の台座と書いてある。つまり、ひっくり返って見ると石碑の上に大地・地球が乗っているというのである。だから世界の台座。シンプルなアイデア1つで地球をも作品に巻き込んでしまったのだ。逆さになった文字の意味に気づかなければ、見る人にとって台座はただの石でしかないし、意味を知ってしまった人にはもうそれは地球を乗せているとんでもない石になるわけだ。(マンゾーニはコンセプチュアル・アートの作家のなかでもブッとんでいる。お世辞にも綺麗とは言えない作品も多々ある。でもそれも発想の勝利なんだろう。誰もやっていなかったことを一番にやる、それがどんなことであってもそこに個性が認められるのかもしれない・・・。)

 また、レディメイド、と呼ばれる作風で知られるマルセル・デュシャン(現代アートの父)に関しては、お店で買ってきたものにほとんど手を加えず、タイトルをつけるだけで作品とした。(スコップに対して、タイトル、いつか折れる左足に備えて、といった感じ。)タイトルというものがいかに作品を作品にしているか考えられるし、かつて作品とされてきたオリジナリティーはない。もちろん発想の勝利かつ、早い者勝ちの世界なので、今はもうスコップを出品してもデュシャンのオマージュにしかならない。(私はしたいけど)

ここまでなんでもありだと示されると芸術の評価基準があまりに曖昧で脆い価値観に感じないだろうか。もちろん写実が一番と、レディメイドみたいなどっかで買ってきた既製品や、パッと見て訳の分からないものに芸術性は感じられないという人はたくさんいる。分かりやすいものが評価されるのは必然だ。ただ、分かりづらいものにも良さがあるときもある。

先日、美術館の帰りに寄ったカフェでは現代音楽作曲家の塩見允枝子氏とのコラボクッキーが売っていた。見た目は平面知育パズルみたいな三角と四角のシンプルクッキー。味は薄っすらレモンだけど、素朴なのでジャムが欲しくなる感じ。大事なのは見た目でも味でもなかった。かつてフルクサスという芸術運動に参加していた(あのオノ・ヨーコもいた)塩見氏の作品は絵画や立体作品ではなく、見る人へのたった一文の質問であったりする。それらは観客の作品への参加と想像の自由を追求した究極といった感じだ。そんな塩見氏の作品をオマージュしたクッキーに添えられたメッセージには、「このお菓子を食べる時、あなたはどんな方向へ向かっていますか?」とあった。この質問に対してポジティブに答えるも、ネガティブに答えるも私たちは選べる。食べなくたっていい。具体的にどこかの方角へ歩いてもいい。私みたいにクッキーの薄味についてよりも、自身がどこへ向かっているのかを考えはじめてこんがらがっちゃってもいいんだろう。

間違ってるとか、詭弁だ、むちゃくちゃだって言われても何も言わないよりかは良い。

そもそも、正解も王道も無い。

芸術は自由の最後の砦だ。

もうすこしその優しさに甘えていたいと思う。

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