旅を終えて―旅と観光の違い

 先週の話ですが、大阪府吹田市の下宿先から地元である三重県鈴鹿市までの107kmを歩いて帰省しました。8月20日の深夜0時から出発して2つの峠を越えて三重県伊賀市に入り、伊賀上野で一泊して鈴鹿山脈を越えて鈴鹿へと帰るという行程で、道のり的にはかつての大和街道に準ずるようなルートです。107kmという距離を歩くのは初めてで結構前からできる限りの準備・計画をしたつもりでしたが、ルート設計や判断ミスなど反省すべき点が多く、さらに自分のあらゆる面での弱さを強く突きつけられました。しかし、心が折れても何とか立て直して最後まであきらめず歩ききれたことが嬉しかったです。振り返ってみてもこの旅路で得たものは大きかったと思います。

 この旅を計画した4月から、「旅と観光の違いとはなにか」ということをずっと考えていました。3月に「一人旅」と称して名古屋と伊勢志摩へ行きましたが、今回の「一人旅」はそれらとはまったく性質が異なります。それらをまとめて「一人旅」と呼ぶのは何か腑に落ちないところがあります。今回は先週の旅の経験を踏まえて、その違和感をできる限り解消したいと思います。

 はじめに、いろんな辞書での解説が一度に閲覧できるコトバンクを使って「旅」と「観光」を検索してみます。まとめてみると、「旅」は「居所・住んでいるところを離れて、よその土地へいくこと」であり、「観光」は「他の地域へ訪れ、風景・史跡を見物したり体験をしたりすること」となっています。ちなみに「旅行」は「旅をすること」のようです。それはともかく、辞書的には「旅」は現在自分が居場所としているところから離れて別の場所へ行くことそのものをいい、「観光」は別の土地へ訪れて見物や体験を行うことをいうようです。「旅」は「離れること」を重視し、「観光」は「訪れること」を重視しているといった差があるように感じます。

 そういえば「自分探しの旅」とは言いますが、「自分探しの観光」とは言いません。ここには両者の明確な違いがあるように思います。まず、「観光」日常では行けない明確な目的地を設定してそこへ移動し、そこでは様々な行動を快楽として享受します。つまり、普段は行けない楽しむ対象としての「場所」へ行き、そこにある「観光資源」として設定されたものごと受動的に見物・体験するということです。たしかにどの観光スポットを選択するかについては能動的ですが、実は情報誌やウェブサイトによって「観光スポット」やその巡り方・楽しみ方はけっこう規定され、与えられています。そして、「観光」はそれを楽しむということが最大の目的となっており、基本的にそれ以上もそれ以下もありません。いや、楽しけりゃ全然いいんですけどね。これはあくまで勝手な分析です。また、目的地までの移動はその場所に訪れるための単なる移動でしかなく、大きな意味を持つことはありません。

 一方で、「旅」は明確な目的地よりも「日常では達成できない明確な目的」を設定するものだと考えます。この「明確な目的」は楽しいものとは限りませんし、それが決まれば目的地はあとから決まります。ちなみに、先週の一人旅の目的は「過酷な距離・道のりをあえて歩くことで自分の体力と精神力を試すこと」でした。それこそ「自分を探す」や「〇〇を学ぶ/成し遂げる」など目的はいろいろあると思いますが、それは目的地だけでなく道中でも実行されることもあり、目的地までの移動そのものが大きな意味をもつことがあります。また、自ら目的を設定してそれを実行するという意味では「旅」は能動的なものと言えます。つまり、「旅」とは普段では実行できないある明確な目的能動的に設定し、それを達成するために現在の居場所から離れて別の場所へ行くことだといえるのではないしょうか。

 このようなことを考えると、先述の名古屋と伊勢志摩への「一人旅」はその場所を訪れて楽しむことを目的としていたので「観光」だったと言えます。一方、先週の「一人旅」は目的があり、そのために下宿先(現在の居場所)から離れて故郷へと帰ったので「旅」と言えます。どちらも「非日常性」を志向したものではありますが、その非日常に対する目的の設定やその実行の方法には大きな違いを見つけることができました。この違いこそが両者を「一人旅」としてまとめることへの違和感の正体なのだと思います。もちろん、どちらが良いか悪いかではなく、普段何気なく使っている「旅」と「観光」という言葉の解釈の話です。どちらにせよ自分の日常だけに留まるのではなく、新しいものごとを身体で感じて知るということに大きな意味があります。そのような体験をもとにして自分の感性を研ぎ、またさらに日常のほうも鮮やかに色づけることができればいいなと思います。

08月30日(木) 大脇崚冴

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