ゆゆうじょうパパワー

 男女間の友情は存在するのかという問いは、バナナはおやつに入るのかレベルで古来より激しい論争が繰り広げられており、時に紛争へと発展することもありました。お互いの主張を眺めてみても「はぇ~まあ分かる」みたいなことが多く書かれている気がします。ただ、記事をぼんやりと調べてみても主観的な感想の蓄積をデータとして取り扱っているように見えるので、いまいち決定打として言い辛いのも現実です。女性向け週刊誌のエビデンスはガバガバ。

 さて、まずは自分について考えてみます。結論から言えば、男女間の友情は存在すると言えます。というかそうしないと解決しない人間関係がいくつか存在するからです。僕は恋愛感情と男女間の友情の間には決定的な差があると確信していて、比喩表現になるかもしれませんが、背中を守りたいか、背中を合わせて戦いたいかの差だと考えています。もちろん前者が恋愛感情で後者が男女間の友情(もうめんどくさいので単に友情とします)です。

 ぶっちゃけこの話題は心理学が得意な人や研究者の人が真面目に分析していただくのが一番だと思っています。僕と心理学はハンニバルとローマレベルでウマが合わないので、そのような勉強をする気はありません。いや、面白い学問だとは思うけどやりたいとは思えないんだよ。

 閑話休題、ここから解説です。まず友情の方に関してですが、僕は「背中を合わせて戦いたい関係」と表現しました。お互いの信頼と信用の両方を共有しており、性差の配慮は多少したとしても基本的には「個人対個人」の関係となります。この時の個人は単に一人の人間という意味だけではなく「性別などといったことよりも文明社会に生きる社会的人間の一人であるその人」という意味も内包します。これは高度に発展した社会においては究極的な男女平等が成立しており、その世界の中では「性別」という概念は社会的に排除されていると僕は考えているからです。これは社会全体へも言えることになるのですが、究極の男女平等というのは性別という概念が社会から抹消されることなのです。つまり、個人として「あの人は力仕事が苦手」とか「あの人は家事が得意」とか「あの人は運転が下手」というようになることです。まあ今の男女平等主義者は自分の生別ageしかしなry(以下検閲)。

逆に恋愛関係はそのような要素が一切ありません。むしろ生物的な原始的感情の集積と言えます。どういうことかと言うと「その人と生殖活動をして子供が欲しいか」という一言に集まります。本当にそれだけです。それ以外の感情はその本能を正当化させる過程にすぎません。じゃあプラトニックラブはどうなるんだとなるかもしれませんが、それは心の奥では「あーあの人と子供が欲しい」という感情が潜んでいるけど、実行に移し辛い二者が出会ったことにすぎず、別に尊いわけでも何でもありません。(もちろんこの理論をベースに考えるならですが)それか本質的に恋愛関係ではないかのどちらかです。「そんな感情なんてない」とさらに言われそうですが、繁殖本能なんてもんは君らが生まれてからの数十年単位ではなく脊椎動物が誕生した数億年前からの動物的本能なので、必ず生物の奥底にあるものです。むしろそれが生物を生物たらしめるものなので、それを否定するのは人類であることの否定ともいえます。(もしかして神かな)

 さあまとめに入りましょう。まず友情とは「人間の社会的関係性」と言えます。個人の尊重し、個性を尊重するものです。それこそプラトニックラブよりもプラトニックな関係と言えます。そして恋愛感情というのは「人間の生物的関係」と言えます。その人を伴侶として人類という生物の存続のための行動をとることです。

 最後に、どうしてここまでややこしいことになったのかですが、おそらく人類が文明というものを築き上げるに際し、生殖活動も文明の過程に組み込む必要があったからです。文明社会は本能を嫌います。嫌うからこそ国家が生まれ都市が生まれ法が生まれ倫理が生まれたのです。しかし本能というのはそのような文明を容易に破壊することができます。性犯罪がいい例です。あれは本能的に正解ですが文明的に非正解なのでアウトという事なのです。そして人間の進化の過程でも精神面で「子供を作る」というゴールをより複雑化することで、ただの本能を恋愛という感情に進化させたのではないでしょうか。ゴールに過程を設けたのは人類の功績かもしれません。

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