ナーロッパに行きたくないです。

 ここまで考えておいて何ですが、そもそも僕はゲーム世界を文字プラットフォームに落とし込むのは相当な能力が必要であると考えています。ステータスが見れるとして、箇条書きに文字を羅列するのは芸がないし、かといって文章で長々と書くのも読み辛い。もっと立ち返れば「神視点の癖にプレイアブルキャラクター」は非常に矛盾しています。『ソードアートオンライン』ですらプレイヤーは学習しています。強キャラであっても学習はする。むしろ強キャラになればなるほど学習量は凄まじいと言えます。

 分かりやすい例として『スマブラ』を挙げます。現在ではオンラインのみならず、オフラインの大会が国内外で行われていますが、その上位のプレイヤーはただ上手いだけでしょうか?キャラの把握もそうですが、一瞬の判断力やアドリブ、ゲームメイキングなど様々な強みを併せ持っています。むしろそう言う人が上位に行けます。逆にただ操作ができる人はある程度で止まります。そこに思考が無ければいけません。

 よくなろうは筆者の願望だの欲望だのと散々に書かれることも多いですが、内容として「主人公(自分)は努力せずに結果を得たい」つまりはローリスクハイリターンであり続けたいことが作品内に出ているからそのような言われ方をするのでしょう。

 話が逸れましたが、チートがあってもプレイヤーは努力しなければならないのが本来のゲームです。メタ世界(神界)という概念もあってもいいかもしれないですが、介入しすぎるのも良くありません。僕が言いたいのは「プレイヤーチートするぐらいならステータスとかそんな細かいことは考えるな」という事です。能力をうだうだ羅列するのではなく、「彼の通った後には木一本立っていることは無い」だけでいいんです。それだけでも「あ、こいつやべーわ」ってなります。つまりはステータスに頼らないやばさの表現を求めることこそが後ろ指刺されないなろう系と言えるのではないでしょうか。

 まとめますと、なろう系はゲーム的世界観に引っ張られすぎていると言えます。テンプレートに固執して自分の表現したい世界観が制限されている可能性があるのでしょうか。僕は異世界系の物語はあっていいと思いますし、転生系のファンタジーで面白い作品がたくさんあるのも知っています。

 先述の通り、文字媒体とゲームのステータス画面の相性は最悪だと思っています。だから表現するなとは言いませんが、その表現方法は考えないといけないと思います。要は萎えちゃうんですね。ステ画面が出てきて「はい、あなたの能力は全部すごいですよ」ってなるの。『ゴブリンスレイヤー』みたいに「主人公はあくまでゲームの駒である」ってなってもいいと思いますし、むしろそちらの方が馴染みやすいのではないでしょうか。

 現状のナーロッパとなろう系を振り返るとするならば、中途半端の一言で言い切れるでしょうか。メタ視点とプレイヤー視点が混在してしまっているのが一番の問題に思います。作者個人の問題でもありますが、ゲームっぽい世界観であれば、もっとゲームをやるべきなのかなというのが今回の結論になります。

というわけでナーロッパを描くもっともな近道はRPGをすることです。あとは歴史の教科書をちょっと読むぐらいでしょうか。それだけでも説得力が随分と変わると思います。妄想を知識で補強することが大切なことでは無いでしょうか。

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